母Mと息子Sの学習キロク

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宵の明星・明けの明星。金星の動きを整理する(ややこしい)。 ~理科観察 200514木曜深夜 10minボックス

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10min.ボックス 理科野外観察的分野

第13回 星をみる~金星の見え方

夕方に一番星として見えたり、明け方に輝く星として見えたりする金星。惑星の一つである金星の見え方を調べ、そのしくみをモデル実験で考える。

 

  • 映像を見ながらの説明ならばなんとなくわかるけど、自分の頭の中だけでは星の動きをいまひとつはっきりと想像することができない。立体図形と同じような難しさがある。テスト対策としては丸暗記していた分野です。
  • 金星は、太陽と月を除くと、最も明るく見える星。
  • 西の空に見える金星は、よいの明星と呼ばれる。よいの明星は、太陽を追いかけるように沈んでいく
  • 東の空に見える金星は、明けの明星と呼ばれる。明けの明星は東の空を昇っていき、やがて太陽が現れると見えなくなる
  • 金星は地球よりも内側を回っている。地球は太陽の周りを365日で一周するが、金星は225日で一周する。
  • 太陽・金星・地球の順(金星が真ん中)に一直線に並んだときから始めた場合、このときの金星の位置を内合という。
  • 1か月後、2か月後、3か月後、4か月後と、太陽の周りを回る周期の短い金星が先に進み、地球と金星は次第に離れていく
  • 10か月後、太陽をはさんで地球と金星がほぼ一直線に並ぶ。金星・太陽・地球(太陽が真ん中)。ちょうど一直線に並んだこのときの金星の位置を、外合という。
  • 外合を過ぎると、今度は地球と金星は近づいていく
  • 19か月後、金星はほぼ地球に追いつき、20か月後には完全に地球を追い越す。
  • 地球と金星は、584日ごとに内合を繰り返す
  • 内合のとき、金星は太陽の方向にあるため地球からは見えない
  • 内合を過ぎると、地球の自転の方向から、地球から見える順序は金星、太陽となる。⇒明けの明星。太陽より先に東の空に現れる。
  • 外合のとき、金星は太陽のうしろに隠れて地球からは見えない
  • 外合を過ぎると、地球から見える順序は太陽、金星となる。⇒よいの明星。太陽を追いかけるように西の空に現れる。
  • 太陽と金星の位置関係により、金星の形や大きさが違って見える。
  • 内合から外合のあいだでは右側が欠けて見える。
  • 外合から内合のあいだでは左側が欠けて見える。
  • 内合に近いほど金星は大きく欠けて見える。

 

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10min.ボックス 日本史

第9回 江戸時代の文化

江戸、京、大坂の三都はにぎわいを見せ、学問・教育の発達、絵画、諸芸能などさまざまな面で文化が開花した。江戸期の諸文化を見る。

 

  • 江戸時代は経済的余裕が生まれ、人々は娯楽や学問にも時間を割けるようになった。
  • 江戸幕府が開かれてからおよそ100年経った元禄のころ、文化の中心は大坂や京都などの上方だった。
  • 江戸時代も終わりに近づいた文化・文政のころになると、文化の中心は江戸へと移り、庶民が楽しむものが増えていった。 
  • 5代将軍徳川綱吉のときの元禄時代。商品は遠くの町へ運ばれるようになり、とくに大坂を中心とする上方と江戸のあいだでは、人や物が多く行き交った。
  • 天下の台所」といわれた大坂では、町人が力をつけ、武士などとともに元禄文化を担っていた。
  • 俵屋宗達風神雷神図屏風
  • 尾形光琳『八橋蒔絵螺鈿硯箱』
  • 土佐光起『源氏物語図屏風』
  • 元禄時代の作品の多くは、豪華で洗練されたもの。 
  • 人形浄瑠璃や歌舞伎などの芝居。
  • 脚本を書き、人々の心をつかんだ近松門左衛門。生涯でおよそ120の作品を書いた。人形浄瑠璃の一座に加わり、語り手である太夫のもとで修業をんだ。33歳のとき、「時代物」とよばれる芝居『出世景清』が大ヒット。源氏と平氏の戦いで、源頼朝に敗れた武士の物語。
  • 自分の書いた脚本に「作者 近松門左衛門」と記した。←それまで脚本の作者名は記されることがなかった。 
  • 曽根崎心中』。大坂の町で起きた、若い男女の心中事件を題材にした。実際の出来事を元に書かれたものは「世話物」とよばれた。 
  • ターヘル・アナトミア』、オランダ語で書かれた医学書。医者の杉田玄白前野良沢らが日本語に翻訳し、日本の医学の発展に大きく貢献。『解体新書』。
  • 『解体新書』は日本の医学の進歩に大きな役割を果たしただけでなく、人々がオランダ語で学ぶきっかけともなった。オランダのことを「阿蘭陀」と書いていたため、「蘭」の文字からオランダ語の本から学ぶことを蘭学と呼んだ。
  • 1800年ごろ、江戸の最盛期。文化・文政時代の名から取って化政文化
  • 化政文化を支えたのは町人たち。
  • 歌川広重東海道五十三次。江戸の日本橋から京都へ向かう東海道の53の宿場町を描いた浮世絵。
  • 広重は当時のベストセラー小説『東海道中膝栗毛』に注目し、登場人物の弥次さん、喜多さんが見たであろう東海道の風景を浮世絵にした。
  • 浮世絵はそれまでは肉筆とよばれ、一点一点手で描かれていたが、江戸時代のなかば以降、版画で同じ浮世絵を何枚も作るようになった。絵師が墨で絵を描き、配色を決める。彫師は絵の線の部分のみを残して彫る。色をのせる部分は別の板に彫り、色ごとに版を変える。版が完成すると摺師が、色がずれないように刷る。
  • 絵師がフィーチャーされがちだが、浮世絵を再現する映像などを見ると、摺師の技術もとんでもないことに気づく…
  • 大量に作られるようになった浮世絵の値段は、そば1杯と同じくらいの手ごろな値段だった。
  • 寺子屋。子どもたちが読み書きやそろばんなどを習った。先生は、武士や医者、僧侶など。寺子屋は、江戸や京都から次第に全国各地へ広がった。読み書きそろばんの知識は、文化の広がりを後押しした。