母Mと息子Sの学習キロク

母Mと息子Sの学習キロク

夫の在宅率上昇に伴い、PCをいじりまくれる率が下降したため、更新ペースが落ちています。

【スポンサーリンク】

高校講座日本史のMC・小日向えり さん、芸能界引退。 ~日本史・世界史・地理 200526火曜 高校講座テレビ

もしもこの記事が気に入って頂けましたなら、はてなブックマークやツイッター等でシェアをお願い致します。日々の活力になります!

 

火1:日本史

第29回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展 立憲国家を目指して

明治六年の政変で、明治政府は分裂し、政府を去った板垣退助ら土佐・肥前出身の前参議は、大久保利通らの政府を専制的であると批判して、1874(明治7)年1月、民撰議院設立の建白書を左院に提出した。以後、国民の参政権を確立することをめざした自由民権運動は、急速に広まっていった。明治10年代に入ると、運動はそれまで政治に参加していなかった人々にも広がり、全国化していった。運動はどのように発展していったのだろうか。また、政府は運動に対してどのような態度を取ったのだろうか。 立憲国家が成立する生みの苦しみの経過をたどっていく。

 

  • 伊藤博文きらい(←出オチ)
  • 明治政府は旧薩摩藩長州藩出身の人間が中心となって、急速な近代化を推し進めた。一部の人間が実権を握っている政府に対して、士族や農民の反発が強まる。
  • 岩倉具視大久保利通木戸孝允は遣外使節団のメンバーとして、1871年からおよそ2年間、欧米を歴訪。
  • その間、日本で明治政府を支えていたのが、西郷隆盛板垣退助
  • 当時、政府は鎖国中だった朝鮮に西郷を派遣して開国を求めることを、閣議で決定していた。そこへ帰国した大久保や岩倉は、国内の整備が先決と、この案に反対。西郷の朝鮮派遣を覆した。(今は征韓論という言い方はしないのかな)
  • 明治六年の政変:西郷・板垣、政府の要職を辞任。彼らを支持する官僚や軍人も次々と辞職。
  • 西郷隆盛は、専制政府の改革を目指して薩摩の士族らを中心に挙兵し、西南戦争となった。西郷軍は7か月にわたって政府軍に抗戦したが、徴兵制によって編成された軍隊を中心とする政府軍に鎮圧された。武力反抗が不可能であることを知った士族は、これ以後言論による反政府運動を展開していくことになる。
  • 各地に政治的結社(政社)が結成され、これらの全国的な連合組織として、大阪で愛国が創立された。
  • 板垣は政府の姿勢を、「公論」政治を宣言した五か条の誓文に反した専制であると批判。言論によって立憲政治を進めようと土佐に立志社を創立した
  • 1874年、板垣、民撰議院設立の建白書を政府に提出。薩摩藩長州藩の一部の人間が動かしている状態の政府を批判し、国民の選んだ議員による国会の開設を求めた。⇒自由民権運動
  • 1875(明治8)年1月、大久保利通木戸孝允と板垣をまねいて大阪会議を開く。
  • 同年4月、「漸次立憲政体を樹立する」詔勅三権分立の方針にもとづく政治機構の改革をすすめる。
  • 元老院と地方官会議。立法上の諮問機関。
  • 大審院。最高の司法機関。
  • 1875年6月、はげしくなった政府批判に対して、新聞紙条例讒謗律を制定。言論活動に制限を加え、民権運動をきびしく取り締まった。
  • 西南戦争ののち、1878(明治 11)年9月、中断していた愛国社の再興大会が大阪で開かれる。
  • 士族を中心とした民権運動は、商工業者や地租の軽減を求める地主(豪農層)などが参加するようになり、全国的な国民運動に発展していった。
  • 1880(明治13)年3月、国会期成同盟の結成。国会開設を政府にせまる運動。多くの憲法草案。私擬憲法
  • 政府も欧米に対抗するために憲法を制定し、国会を開設する必要性を感じていたが、政府主導を目指した。
  • 板垣を政権に復帰させる。
  • 民権運動の高まりに直面していた政府内でも立憲制の導入をめぐって意見が分かれ、大隈重信は国会の即時開設を主張して、漸進主義をとる伊藤博文と対立。
  • 1881(明治14)年、開拓使官有物払い下げ事件。政府の長官が同じ藩出身の実業家に、国有施設を安価で払い下げるといううわさが新聞のスクープ記事に。このうわさを広めたのが、民権派と手を組んだ大隈だったという情報が政府内に流れた。
  • 明治十四年の政変伊藤博文、大隈を政府から追放。国会開設の勅諭を出して、9年後(1890年)に国会を開くことを国民に約束した
  • 国会開設の勅諭を契機に、政党の結成も盛んになる。
  • 板垣退助を総理とする自由党フランス流の急進的な民主主義を主張
  • 大隈重信を党首とする立憲改進党イギリス流の穏健な議会主義を主張
  • 政府は民権運動にきびしい弾圧を加える一方で、民権派の分裂や懐柔をはかり、福地源一郎らに保守的な立憲帝政党を組織させた。
  • 民権運動の一部が過激化(松方デフレの影響)し、豪農層が運動から離れていき、運動は次第に停滞していった。
  • 1886年大同団結運動民権派の結集。民権運動は活発となり、再び政治熱が盛り上がった。 
  • 1882年、伊藤たちは近代国家の憲法や議会制度の調査のため、ヨーロッパへ。憲法作成の手本にしようと考えた。
  • 宰相ビスマルクのもと強力な君主主義で強国への途を歩んだドイツを視察。グナイストに学ぶ。
  • オーストリアでは当時ウィーン大学の教授だったシュタインに学ぶ。
  • 帰国後1886年ごろから、伊藤は、井上毅、金子堅太郎らとともに、非公開で憲法草案などの作成に着手。並行して、立憲制開始に備える諸改革をすすめた。
  • 1884(明治17)年、華族華族公・侯・伯・子・男の5爵位に分けた。国家に功労のあった人々にも爵位を授与。公選の衆議院に対して、華族中心の貴族院を設ける準備を行った。
  • 1885年、太政官制にかわる内閣制度を創設。初代の内閣総理大臣に伊藤が就任。
  • 1888年、市制・町村制
  • 1890年、府県制・郡制。ドイツ風の地方自治制を導入。

 

  • 小日向えりさん、芸能界を引退されたそうです。おつかれさまでした。

  • 高校講座「日本史」はおそらくあと2年ほどは再放送される‥のかな。

NHK高校講座 | ライブラリー | 日本史 | 第29回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展 立憲国家を目指して

3問正解。

 

 

 

火2:世界史

第29回  ラテンアメリカ諸国の独立

ラテンアメリカでは18世紀末に独立運動が始まった。メキシコでは人々が1810年に立ち上がり、1821年にスペインからの独立を達成した。独立後の重要な政治課題のひとつは、自分たちは誰なのかという「国民アイデンティティー」の確立だった。メキシコでその手がかりとされたのが、16世紀にスペインに滅ぼされたアステカ文明だった。新たな独立の時代を切り拓くために、古い時代がよりどころとなったのだった。

 

  • メキシコ国旗:緑:独立 白:純粋 赤:統一
  • スペインやポルトガルなどヨーロッパ諸国の植民地となったラテンアメリカ。、入植者や先住民インディオ、アフリカから連れてこられた奴隷などが入り交って暮らしていた。
  • 19世紀、メキシコをはじめとしたラテンアメリカには、細かな階級制度が続いていた。少数の裕福な階層と、貧困にあえぐ多くの人々。
  • ペニンスラール:階級の一番上、スペイン本国で生まれたスペイン人
  • クリオーリョ:キシコで生まれた少数のスペイン人。
  • メスティーソ:スペイン人と先住民の混血
  • 先住民や黒人奴隷・・最下層に置かれた。
  • イグナシオ・アジェンデクリオーリョの優秀な軍人。ペニンスラールではないため大佐以上にはなれず、階級社会に不満を持った。スペイン本国からの支配を受けない国を作ろうと考えた
  • そのころのスペイン本国は、ナポレオンに侵攻されていた。
  • アジェンデは、下層階級の先住民たちからも信望のあったミゲル・イダルゴ神父を反乱に引き入れた。
  • 1810年9月、イダルゴ神父、アトトニルコ教会へ。グアダルーペの聖母の旗、メキシコ人の守護聖人。この旗を独立軍のシンボルとした。
  • 首都メキシコシティに向けて進軍。グアナファトでスペイン軍と交戦し、勝利。
  • ⇒⇒スペイン人に過酷な支配を受け続けてきた人々が暴走した。クリオーリョたちにも反逆、虐殺。⇒味方であったクリオーリョたちの多くが独立運動から離脱することに。
  • 反乱は失敗。アジェンデとイダルゴは処刑された
  • 1821年、スペイン本国で自由主義革命が起こる、メキシコは独立。
  • 独立戦争は、少数のエリートたち(クリオーリョなど)が中心となって起こしため、独立後の政治に多くの国民の意思は反映されなかった。
  • サンミゲル・デ・アジェンデ。
  • 独立したものの、メキシコはまとまりに欠けている状態。35年間に大統領が55人も代わるほど内政が混乱した。
  • それに乗じて、テキサスにアメリカから大量の入植者が入り込み、メキシコから独立してテキサス共和国を作ろうした。
  • テキサスの入植者たちはアラモ伝道所に立てこもり、メキシコ軍と衝突。入植者たちは全滅。が、テキサスはメキシコと戦い続け、独立。
  • アメリカ・メキシコ戦争(1846〜1848年)。メキシコはアメリカに敗れる。
  • 1848年、メキシコは、テキサスに加えてカリフォルニア・アリゾナコロラド・モンタナなど、当時の国土の約半分をアメリカに譲り渡すことになった。
  • アメリカにとっては、現在の西部・南部諸州を得たということ。
  • 先住民出身の大統領ニート・ホアレス(共和派)、メキシコの近代化に乗り出す。が、これに保守派が激しく反発し、国内は混乱。
  • 1863年、混乱に乗じたフランス軍メキシコシティを占領。ハプスブルク王家のマクシミリアンメキシコ皇帝として送り込む。
  • 隣国プロイセンとの緊張が高まったため、フランス軍はメキシコから引き上げる。残されたマクシミリアンは共和派に捕らえられ、処刑。
  • マクシミリアン。考古学や芸術に造詣が深く、メキシコ人に共通する文化的基盤として、スペイン征服前の高度な先住民文明に注目した。考古学者や歴史学者たちを集め、古代文明を研究するメキシコ学を推進。
  • マクシミリアンの死後、政府は国民統合のシンボルとして古代アステカを用いる新アステカ主義を打ち出した。 
  • メキシコ政府は新アステカ主義を進める一方、当時の先住民たちの文化は軽んじた。

 

NHK高校講座 | ライブラリー | 世界史 | 第29回 ラテンアメリカ諸国の独立

3問正解。

 

 

火3:地理

第29回 現代世界の地誌的考察 【現代世界の諸地域】編 世界のさまざまな地域を見てみよう ~東南アジア~

東南アジアは、高い気温とモンスーンの雨により水田稲作農業が盛んで、食文化などの面で日本との共通性も高い。民族や宗教・文化の面では、多くの民族が互いの宗教や文化を認め合いながら共存を図ってきた。政治・経済面では、経済成長が著しく、ASEAN域内や国内の格差は残るものの、人々の暮らしは急速に変わりつつある。こうした東南アジアの人々の日々の暮らしに目を向けてみよう。

 

  • 東南アジア。11の国で構成。そのほとんどが熱帯バンコクやマニラなどの都市では、気温は1年中25度以上。夕方、スコールと呼ばれる土砂降りがあると、夜は涼しい。雨季と乾季が見られる地域もあるが、東南アジアには乾燥帯はない
  • 季節風モンスーン。モンスーンは季節により風向が180度変わる。その風の変化とともに雨季と乾季が訪れる。
  • 雨の降る時期に合わせて米を作る灌漑。十分な水が得られれば、年に2回、3回と稲作が可能
  • 東南アジアの多くの人々の主食は日本人と同じ米。栽培される米の種類や米を用いた料理も数多い。収穫量多い。
  • フィリピンのルソン島。標高1500mを超える山の斜面に作られた棚田。
  • インドネシアのバリ島。田植えからおよそ3か月後には収穫できる。バリ島は常夏の島。
  • ベトナム南部のメコン川の河口。世界有数の稲作地帯・メコンデルタ
  • 東南アジアの各地で、農業の近代化が進んでいる。
  • 1960年代半ばに緑の革命が始まる。高収量品種の導入や肥料の投入などにより、多くの国々で米の大幅な増産が達成された
  • さとうきび、天然ゴム、ココやし、あぶらやし、バナナ。
  • アメリカや日本に本社のある多国籍企業が生産や流通に関わり、日本にバナナを輸出している。
  • ベトナムでは、近年コーヒーの栽培が急増。南米のブラジルに次いで世界第2位の生産量。
  • インドシナ半島の各国には仏教徒が多い。タイ族・最初の王国の都、スコータイなど
  • インドネシアやマレーシアにはイスラーム教徒ムスリム。とくにインドネシアは世界最多、2億人あまりがムスリム
  • マレーシアの市場。国民のおよそ6割がムスリム
  • ブルネイの首都、水上都市のバンダルスリブガワン。行き交う船の多くにムスリム
  • フィリピンにはキリスト教徒。16世紀以降、スペインの植民地支配によって広まる。
  • インドから仏教が大陸部や島しょ部に伝わり、その後西アジアからイスラームが島しょ部に伝わった。
  • タイ以外の国々は植民地支配を経験し、多様な民族が協力して独立を勝ち取ってきたという歴史がある。
  • マレーシア。マレー系、中国系、インド系住民などから構成される多民族国家
  • 1960年代の終わり、経済的に豊かな中国系住民とマレー系住民の間で対立が起こった。
  • ⇒政府は、ブミプトラ政策を取り、雇用や教育面でマレー系住民を優遇し、多民族が共存する道を推し進めた。
  • 植民地時代の東南アジアは、宗主国の欧米諸国の富を増やすことを目的に開発されてきた。モノカルチャー経済を押しつけられた東南アジアの国々では、経済発展がなかなか進まなかった。
  • 鉱産資源のスズなど単一の農産物や鉱産物に依存する…モノカルチャー
  • マレーシアの天然ゴムのプランテーション。ゴムノキの樹皮を削り樹液を集める、天然ゴムの原料。薬品を加えて凝固させると生ゴム。
  • 20世紀半ばの独立以降、各国がモノカルチャー経済から抜け出すべく、工業化政策を推し進めた。
  • 1967年インドネシア、マレーシア、シンガポール、フィリピン、タイの5か国東南アジア諸国連合ASEANを結成。次第に加盟国を増やし、東南アジアをまとめる地域連合へと成長した。
  • 1970年代、各国とも輸出加工区を設置。輸出指向型の工業化。
  • いち早く成功したシンガポール。アジアの新興工業経済地域・アジアNIEsの一員に成長。
  • 続いてマレーシアとタイでも工業化が進んだ。
  • ベトナムは1980年代後半以降、外資導入による工業化を進めた。ドイモイ(刷新)と呼ばれる市場開放政策
  • 国内総生産の成長率では、東南アジアの多くの国が5%前後で推移している。
  • 国民全体の中位年齢は、日本が40代後半なのに対し、ほとんどが20~30代と若い。
  • ASEAN域内に生じた格差。内戦が続いたカンボジアは、経済発展から取り残されていた。
  • カンボジア、1999年ASEANに加盟。隣国・タイとの物流が一気に活発に。
  • ASEAN自由貿易地域(AFTA)ASEAN経済共同体(AEC)の発足。域内の関税の撤廃が進んだ。
  • ラオスミャンマーなどにも工業や社会基盤分野への海外からの投資が増大している。

NHK高校講座 | ライブラリー | 地理 | 第29回 現代世界の地誌的考察 【現代世界の諸地域】編 世界のさまざまな地域を見てみよう 〜東南アジア〜

3問正解。

 

【スポンサーリンク】