化政文化の頃の江戸は楽しそうだ ~日本史 200428火曜 高校講座テレビ
もしもこの記事が気に入って頂けましたなら、はてなブックマークやツイッター等でシェアをお願い致します。日々の活力になります!
火1:日本史
第25回 第3章 近世社会の形成と庶民文化の展開 新しい学問の形成と化政文化
江戸時代中期から後期にかけては、西洋の知識に対する関心が高まり、さまざまな学問がオランダを通して日本に入ってきた。これを蘭学と呼んだが、具体的にどのような学問が日本に入ってきて、どのような影響を与えたのだろうか。また、江戸の町人を主な担い手とした文化が最盛期を迎えた(化政文化)。どのような背景のもとに、どのような文化が繁栄したのか、具体的に探っていこう。
- 8代将軍・吉宗は禁書をゆるめ、西洋の学問を取り入れようとした。天体を観測し、ずれが生じていた暦を改訂しようと考えたことがきっかけ。渾天儀という天体観測器具で、みずから天体観測を行っていた。望遠鏡も長崎の眼鏡職人に作らせた。
- オランダを通して日本に伝えられた西洋の学問は、蘭学と呼ばれた。日本が開国すると、窓口がオランダだけではなくなったため、蘭学は洋学と呼ばれるようになった。
- 吉宗は、青木昆陽らにオランダ語を学ばせた。
- 平賀源内は、起電機(エレキテル)や寒暖計をつくった。
- 杉田玄白・前野良沢。オランダ語で書かれた解剖学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳。処刑された囚人の解剖(腑分け)を見ることで、ターヘル・アナトミアの正しさを確認。「解体新書」。
- 伊能忠敬は、西洋の天文学や測量術を学んだ。非常に正確な『大日本沿海輿地全図』を作成 (完成は忠敬の没後)。
- 化政文化・・・江戸時代後期・19 世紀初頭。文化・文政年間。貨幣経済が浸透して江戸の武士や町人の生活が華美になり、大都市に成長した江戸の町人を中心とした文化が栄えた。
- 寺子屋。庶民の初等教育機関。江戸時代後期には、都市や農村にも広く普及。生活に必要なこととして主に「読み・書き・そろばん」が教えられた。
- 庶民の識字率が向上。さまざまな文学作品が出版されるようになった。
- 庶民の旅を扱った十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、湯屋での会話を扱った式亭三馬の『浮世風呂』など。
- 曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』などの長編小説。
- 錦絵。多色刷りの版画。大量に制作されたため、安価だった。
- 歌川広重の『東海道五十三次』、葛飾北斎の『富嶽三十六景』。庶民の旅行ブームと相まって人気を博した。
- 浮世絵は、のちにヨーロッパの印象派の画家たちにも大きな影響を与えた。
- 芝居小屋、歌舞伎。寄席、講談や落語など。
- 社寺の縁日や開帳、彼岸や盆の行事など。
- 名所見物や物見遊山。講中参詣。伊勢参り。
NHK高校講座 | ライブラリー | 日本史 | 第25回 第3章 近世社会の形成と庶民文化の展開 新しい学問の形成と化政文化
3問正解。
火2:世界史
第25回 アメリカ合衆国の独立とフランス革命
今回は18世紀末の2つの革命について学ぶ。イギリス領アメリカ植民地では、財政を立て直すために課税を強化する本国に対する不満が高じ、戦争が勃発した。1776年には人民主権をうたう独立宣言が発表され、1783年には植民地側が勝利して独立が達成された。他方、財政難に陥ったフランスでも課税強化に反発した貴族や聖職者が三部会の開催を要求、1789年には国王の弾圧を警戒するパリの民衆が蜂起して革命が始まった。しかし、大規模な干渉戦争のなかで革命は混乱し、ナポレオンの登場後、帝政がしかれることになった。
- 18世紀半ば、フランスとの戦争で逼迫した財政を立て直すため、イギリス本国は植民地アメリカに対して、植民地代表の参加がないままに、砂糖や印刷物に課税することを決定した。一方的な負担の押し付けに、植民地側は反発。
- 「代表なくして課税なし」と拒否。
- イギリス本国は北米での茶の販売独占権を東インド会社に与える
- →1773年12月、ボストン茶会事件。
- イギリス領アメリカ植民地は、大農園制が広がる南部と、自営農民が多く工業が発達した北東部などの地域差があったが、イギリス本国が課税を通じて統制を強めると、共に反発を強めた。
- 1774 年大陸会議
- 1775年、植民地軍とイギリス本国軍との間で開戦。
- 独立宣言。ジェファソンが起草。人民の自由と平等、人民主権。近代初の共和国が誕生。
- 1776年、トマス・ペイン『コモン・センス』。「イギリスの支配から脱し、アメリカが独立するのは “常識(common sense)” である」と主張。
- 1776年7月4日、独立宣言。「すべての人が平等であること」、「生命・自由・幸福を追求する権利を与えられていること」、「人民主権の思想」。こ
- フランスが独立戦争に真っ先に参戦。植民地側の勝利が決定的になり、1783年のパリ条約で、イギリスはアメリカの独立を承認した。
- トマス・ペインは、アメリカの独立後にフランスに渡った。フランスの憲法草案作成に関わる。
- フランスの貴族出身のラファイエットは、アメリカ軍の副官として独立戦争に加わっていた。
- 18世紀、アメリカが独立し自由を勝ち取ったころ、フランスはまだ絶対王政。「アンシャン・レジーム」と呼ばれる旧制度の下、税金を払わなくてよい第一身分の聖職者・第二身分の貴族・税金を納めなくてはならない第三身分の平民に身分が分けられていた
- ルイ14世の浪費、アメリカ独立戦争への参戦による財政難が、民衆を圧迫。
- →ルイ16世は、第一身分と第二身分からも税を取り立てようとした。
- ラファイエットが、三部会を開くことを提案。175年ぶりに、三部会が開かれた。憲法制定国民議会。憲法によって国王の権力を制限し、国民の権利を保障する立憲君主制を導入しようとした。
- ルイ16世は、この動きを軍隊で弾圧しようと画策したが、不穏な動きを感じ取った民衆が蜂起。
- 1789 年7月14日、ルイ16 世が憲法制定を求める国民議会を解散させようとすると、民衆はバスティーユ要塞(専制政治の象徴)を襲い、革命が始まった。
- 翌月、人権宣言。
- 革命側(国民公会)は、共和政の成立を宣言。1793年に国王を処刑。王妃も。
- 衝撃をうけたヨーロッパ諸国は、イギリスを中心に第一次対仏同盟を結成して革命を封じ込めようとし、ヨーロッパ全域に戦争が広がった。
- 国内でも派閥が乱立。
- ジャコバン派・・・貧困な都市の民衆が支持。ロベスピエールを中心として独裁政治を行い、反対するものを次々に処刑。
- ロベスピエールの恐怖政治は反発する者も多く、ロベスピエール自身も処刑される
- ナポレオン・ボナパルト。対仏大同盟との戦いに連戦連勝。
- 1799 年に統領政府の第一統領に就任 ←イタリア遠征やエジプト遠征で軍事的成功
- 1804年、ナポレオンは皇帝に即位。国民投票で圧倒的な支持を得た。フランス革命の終結を宣言。⇒ナポレオンによる第一帝政
- 1806年、エトワール凱旋門。ロシア・オーストリアとの戦いに勝利したナポレオンが建設を命じた。
- ナポレオンはイギリスを屈服させるために大陸封鎖令を出す。
- 1812年、ロシア遠征失敗
- 1814 年、パリは連合軍に占領される。
- 1815年、ナポレオンはワーテルローの戦いでイギリスとプロイセンの連合軍に敗れ、セントヘレナ島に流される。
- ナポレオン法典。革命によって確立した法の下の平等、私有財産の不可侵、契約の自由などが盛り込まれたフランスの民法典。多くの国の民法に影響を与えた
- ナポレオンの第一帝政の後、フランスは王政に戻る。
- →第二共和政
- →→ナポレオン三世による第二帝政
- →→→第三共和政
- 現在の体制は、第五共和政。
- 1791年、カリブ海のサン・ドマングで、フランス革命の影響を受けて黒人奴隷が反乱。1803年、フランス(ナポレオン時代)に勝利。1804年、黒人による共和国ハイチが誕生。
- その他の中南米諸国も、1810年代から1820年代にさまざまな革命が起こった。ベネズエラ、コロンビア、アルゼンチン、ボリビアなど。
NHK高校講座 | ライブラリー | 世界史 | 第25回 アメリカ合衆国の独立とフランス革命
3問正解。
火3:地理
第25回 現代世界の系統地理的考察 【生活文化、民族・宗教】編 世界の違いと共通に目を向けてみよう ⑵ ~国家、民族・領土問題~
国家というものをつくっている3つの要素は、主権、国民、領域。主権というのは自分の国のことは自分で決めることができるという最高の権利のことをいう。国民というのは、国家を構成して国のありかたを決めるメンバー、領域というのはその国が支配できる地域のことで、国境線によって仕切られた内側。世界は、国家によってつくられているが、必ずしも、国家と国家の関係は安定していない。どのような問題があるのかを考えていこう。
- 国家の成立に必要なのが、主権、領土、国民。
- 主権とは、他の国の干渉を受けることなく、国家を統治するための最高権力。
- 領域とはその主権が及ぶ範囲で、領土・領海・領空から構成される
- 国民はその領域に属している人々のこと
- 国家と国家の境界線が国境
- 国境の内側では、その国の国民は自由に移動できるが、国を越えて移動するときには、まず自分の国の国民であることを証明する書類(パスポート)が必要。訪問する国からの入国許可にあたる査証(ビザ)を取るのが原則。
- 旧ユーゴスラビアは6つの共和国から構成されていた。5つの民族と4つの言語、3つの宗教が共存していたが、80年代後半の冷戦の終結を受けて、社会主義国家だったユーゴスラビアでは、それぞれの共和国が独立を目指した。
- 1991年6月、スロベニアはほかの共和国に先駆けて独立を宣言。
- スロベニアが早い時期に独立できた理由は、文化的・宗教的に、西側に近かったことが挙げられる。2004年、EUに加盟。2007年にはイタリアやオーストリアとの国境の検問を廃止した。
NHK高校講座 | ライブラリー | 地理 | 第25回 現代世界の系統地理的考察 【生活文化、民族・宗教】編 世界の違いと共通に目を向けてみよう ⑵ 〜国家、民族・領土問題〜
3問正解。
【スポンサーリンク】