母Mと息子Sの学習キロク

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日本史・世界史・地理を連続で学習する日は、「どの国もそれぞれ勝手なことをしているな」と思う。  200519火曜 NHK高校講座テレビ

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火1:日本史

第28回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展 明治維新

江戸時代の幕藩体制は、各藩が独自に政治や税の徴収を行う、いわば地方分権の状態であった。これに対して明治の新政府は「版籍奉還」「廃藩置県」などを行って中央集権化を推し進めた。新政府はなぜ中央集権国家を目指したのか? またそれはどのようにして推し進められたのか? 新政府が同時に進めた「身分制の廃止」や「兵制」や「税制」、そして「学制」に関する改革とあわせて、その目的と内容について考えていく。

 

  • 1868年、明治政府、五箇条の誓文を公布。新政府の基本方針を天皇が示した。公議世論。多くの意見を尊重すること。開国和親
  • 政府は江戸を東京と改称、元号を明治と改めた。天皇は初めて京都を出て、東京に行幸した。
  • 1869年、東京が新しい首都に。新政府は、天皇を中心とした中央集権型の国家体制を目指した
  • 国の近代化を進めるための政策・富国強兵
  • 政府は各藩に版籍奉還を命じた。藩主の所有していた領地と領民を返上させたが、藩主を知藩事とし、引き続き藩政を行わせたため、中央集権にはほど遠いもだった。
  • 1871年廃藩置県。全国の藩を廃止して県を設置するという廃藩置県の詔が、天皇によって発せられた。
  • 旧藩主は知藩事の任を解かれ、かつての領国の支配権=軍事・租税の権限を失い華族の地位を与えられ東京に移住した。旧藩兵の解散と武器・城郭の接収。各府県には中央から府知事、県令を派遣して行政を行わせた。
  • 当初、府県は300以上もあったが、その後、区域が整理されて東京・京都・大阪の3府と72県になった。→幕藩体制が解体され、日本全国が政府の直接統治のもとに置かれることになった。
  • 府県統合はその後も続き、1876(明治9)年には、3府35県まで統合された。
  • 身分制度廃止。大名や公家を、華族藩士と旧幕臣といった武士を、士族。百姓と町人などの庶民を、平民。と改めた。皇族以外はすべて平等ということにした。四民平等
  • 1872年、学制の公布。6歳以上の男女すべてが就学できる国民教育を目指した。
  • 初等教育を重視する教育政策は当時の世界でも珍しいもの。しかし、校舎の建
    設などの負担は地域の住民が負ったため、就学率は地域によって大きく異なった。
  • 女子の就学率が低いなどの問題も。国民皆学が実現したのは日露戦後。
  • 1873年、徴兵令の公布。満20歳に達した男子は士族・平民にかかわらず、3年間の兵役に服することになった。
  • が、多くの兵役免除の規定があったため、各地で徴兵に反対する血税一揆と呼ばれる暴動が発生した。徴兵はお金や物でなく体で国に奉仕するという意味で外国文献の直訳から「血税」と表示されたが、巷では「生き血を吸い取られる」などの妄言が広まり、徴兵令反対一揆の一因ともなった。政府は暴動を抑えたが、その後、免除規定を廃止した。
  • 1889年、国民皆兵
  • 1873年、地租改正条例。全国で土地の測量を行った。土地が誰のものか調査し、それぞれの地価を決めた。
  • 課税対象をこれまでの米の収穫高から地価に変更。物納を金納に。税率を地価の3%とした。⇐税収を減らしたくない政府は、地価を高額に設定していたため、農民の暮らしは楽にならず。各地で地租改正反対一揆が発生。
  • ⇒政府は地租を3%から2.5%に引き下げた
  • 「臣民の三大義務」。1889(明治22)年に発布された大日本帝国憲法で、兵役の義務(第20条)・納税の義務(第21条)が規定された。翌年に出された教育勅語には「学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ」という教育の徳目が盛り込まれた。
  • 岩倉遣外使節団。岩倉具視。欧米各国と結んだ不平等条約を改正するための調査。100人以上のメンバーが、明治4年(1871) に横浜を出発し、約2年をかけて欧米12か国を歴訪した。各国の政治や産業、文化を視察。イギリスで工場見学。プロイセンでは宰相のビスマルクと会見。オーストリアではウイーン万国博覧会を視察。
  • 日本の立ち遅れを痛感して帰国の途へ。
  • 岩倉使節団の中には40人以上の留学生が含まれており、北海道開拓使という省から派遣された5人の若い女性もいた。10歳前後で日本を出発し、およそ10年間のアメリカ留学のあと帰国。
  • 山川捨松アメリカの大学を卒業。英語・フランス語・ドイツ語を駆使して、外国の要人をもてなし、「鹿鳴館の花」とうたわれた。
  • 永井繁子。音楽を専攻し、帰国後は東京音楽学校(現・東京藝術大学)と東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)で、教鞭を執った。
  • 津田梅子。最年少の6歳で留学、高校を卒業して11年後に帰国。再渡米ののち、女子英学塾(現・津田塾大学)を創設。
  • 殖産興業
  • 海運。岩崎弥太郎の三菱会社を手厚く保護し、沿岸の汽船航路を拡充させた
  • 1872年、日本初の鉄道が東京の新橋と横浜の間に開通。徒歩で6時間かかる約30キロの道のりが53分に。
  • 新貨条例円・銭・厘の十進法を採用し、硬貨を発行
  • 国立銀行条例。実業家の渋沢栄一が中心。近代的な金融制度の基礎を整えた。
  • 1870年、工部省を新設。旧幕府の軍需工場や造船所を母体に官営軍事工業の拡充をはかった。
  • 1873年内務省を新設。勧業政策をすすめる。
  • 欧米から機械や設備を輸入して、官営模範工場を各地に建設。
  • 群馬県富岡製糸場など。1872年にフランスの技術を導入して完成した工場では、500人を超える工女たちが働いていた。
  • 質の良い生糸を生産することにより、外貨獲得を目指した⇐当時の日本の輸出品の中心は生糸。
  • 1877年、第1回内国勧業博覧会。東京・上野公園にて。各地から機械や美術工芸品が出品・展示された。民間の産業発展に大きな影響を与えた。
  • 殖産興業政策の推進にともない、三井、岩崎(三菱)らの商人は、政府の保護をうけて金融、運輸、貿易などの部門で莫大な利益を得た。=政商
  • 1871年(明治4年)、散髪脱刀令。
  • 郵便制度。通信。前島密によって、飛脚にかわる近代的な官営郵便制度がととのえられた。
  • 明治10年に電話が輸入され、通話実験が行われる。明治23年、東京・横浜間で一般向けに電話開始。
  • 政府は蝦夷地を北海道と改め、開拓使という役所を置いて、西洋技術を取り入れた開拓事業を進めた。先住民であるアイヌの人たちは土地や漁場をうばわれ、生活を圧迫されていった。

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3問正解。

 

 

 

火2:世界史

第28回  アメリカ合衆国の発展

今回は、アメリカ合衆国が独立から一世紀の間にいかなる発展を遂げたかを学ぶ。アメリカは19世紀末までに領土を太平洋岸まで拡大した。しかし、その過程では、先住民が居住地から追い出されて人口を激減させ、奴隷制の拡大をめぐって南北戦争が勃発するなど、悲惨な出来事も多く起こった。南北戦争後、奴隷制は廃止されるが、黒人に対する差別は根強く残ることになる。そして世紀末、産業化するアメリカはスペインとの戦争をきっかけに植民地を持つ帝国となった。

 

  • アメリカは独立から約100年で、領土は3.4倍に、人口は約14.3倍に増えた。
  • 18世紀後半に独立後、国土は西へと急速に拡大した。西部への開拓を奨励し、開拓した土地は開拓者のものになった。
  • 西部開拓は、先住民インディアンの土地を奪う形で行われた。
  • 19世紀に入ると、アメリカはフランスからルイジアナを、スペインからフロリダを獲得して領土を拡大した。
  • メキシコから独立したテキサスを併合後、1846年にはメキシコと戦争ニューメキシコからカリフォルニアに至る広大な土地を手に入れる。
  • 1830年代、アンドルー・ジャクソン大統領。白人男子の普通選挙制が導入され、民主主義の発展が見られた。が、ジャクソン大統領は、インディアン強制移住を成立させるなど強硬策をとった。
  • アメリカの領土拡大は、先住民の居住地を奪い、強制移住を強い、先住民人口の急減をもたらす残酷なものでもあった。
  • チェロキー族は1000km以上にわたる冬場の強制移動をさせられた。寒さや病気のために数千人が亡くなったといわれる。
  • 先住民の部族らが反乱を起こす。その一つ、プエブロ・デ・タオスの人々の蜂起。1845年、彼らの土地がメキシコからアメリカへ割譲されたのをきっかけに、アメリカへの大規模な反乱を起こした。が、アメリカ軍によって撃退され、最後は教会堂に立てこもり敗北。教会堂も破壊され、今は墓地が残るのみ。
  • →現在は、ニューメキシコ州北部の世界遺産となっている。14世紀ごろ、プエブロと呼ばれる先住民たちが作った建物。土で作られた集合住宅。今も、プエブロの伝統を守る約150人の人々が暮らしている。
  • アメリカは、先住民の土地を次々に奪いながら、西部を開拓を続ける。
  • マニフェスト・デスティニー(明白な天命):西部への拡大を正当化するために出されたスローガン。西部への拡大は、神が与えた使命だから正しいと主張
  • アメリカの南部では、広大で温暖な土地を利用して、綿花やタバコの栽培を中心とした農業が盛んだった。黒人奴隷の労働力による。奴隷売買。黒人奴隷を使って生産した綿花をイギリス向けに安く輸出したい南部は、自由貿易を望んでいた。
  • 北部の基幹産業は工業。労働の中心は白人で、奴隷は必要なかった。先進工業国であるヨーロッパとの競合を避けるため、保護貿易を望んでいた。
  • アメリカでは西部の開拓に伴って、南部と北部との対立が次第に深まっていった。
  • 新たに連邦に加わる州を奴隷州とするか自由州とするかをめぐる対立は、1850年代以降激化した。
  • 1860年奴隷制拡大に反対する共和党のリンカンが大統領に当選すると、南部諸州は連邦からの離脱を決め、アメリカ連合国を結成した。
  • リンカンは奴隷制の拡大は止めたいが、アメリカが分裂することも避けたいと考えていた。
  • 1861年(~1865年)、南部の離脱を認めない北部と南部との間で軍事衝突が勃発、南北戦争が始まった。戦争は長期化し、多くの犠牲者を出した。
  • リンカンはこの状況を打開しようと、奴隷制を掲げる南部が国際社会から孤立することを狙い、1863年奴隷解放を宣言北軍は一気に優勢となり、南北戦争に勝利。
  • 奴隷は解放され、憲法修正で黒人の市民権も認められた。北軍がしばらく南部を占領し、黒人に政治参加を促すなど改革を進めた。しかし、北部による占領の終了後、南部では黒人を政治から締め出し、公共施設で隔離するなど、差別はその後もなくならなかった。南部の州はそれぞれ黒人の権利を制限する州憲法を制定し、実際には差別や人種隔離政策などの問題が残った。
  • →これらの制度が廃止されるのは、20世紀半ば、キング牧師などによる公民権運動を待つことになる。
  • 19世紀後半、戦争に勝利した北部では、ますます工業が発展。
  • 1869年。鉄道の敷設。東海岸と西海岸を結ぶ大陸横断鉄道が開通。物資の大量輸送が可能になった。
  • カーネギー。後に鉄鋼王と呼ばれる。このころ、鉄道のレールを作る会社を興し成功した人物。レールを作るだけでなく鉱山を購入し、原料の入手から輸送、完成品に仕上げるまで全てを行う巨大企業を作り上げた。
  • 大陸に張り巡らされるようになった線路に沿って、電信ネットワークも敷かれた。
  • トーマス・エジソン。電信の技術を独学で身につけ、20代のうちに、電信機の改良などをはじめとする100件以上の特許を取得。4000人以上のスタッフを抱える大きな研究所を構えた。→現在のニュージャージー州トーマス・エジソン国立公園(エストオレンジ研究所跡)
  • エジソン白熱電球を発明。発電所と送電システムも作り、各家庭で電球が使えるようになった。
  • ベル。電話機を開発。大陸内の情報インフラが整う。
  • 鉄道王ヴァンダービルト。石油王ロックフェラー。実業家たちが、巨大産業を作り上げる。
  • 1898年、アメリカはスペインと開戦。キューバがスペインから独立することを支援するという形で。キューバを舞台に行われたスペインとの戦争は、スペインの植民地であったフィリピンにも飛び火。フィリピンはアメリカに併合されて植民地化に。キューバ保護国化。ハワイもこの時アメリカに併合された。
  • この戦争を通じてアメリカは、カリブ海地域に強い影響力を持つようになった。

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3問正解。

 

 

火3:地理

第28回 現代世界の地誌的考察 【現代世界の諸地域】編 世界のさまざまな地域を見てみよう ~朝鮮半島

朝鮮半島は歴史的にも文化的にも日本と交流の深い近隣関係にある。はじめに、朝鮮半島の自然と人々のくらしの特徴を理解する。つぎに、韓国の経済発展と産業の発展をとりあげ、1960年代以降の韓国経済の歩みを振り返り、今日の韓国が工業製品輸出をテコとして成長してきた歴史を知る。さらに、日韓交流の歴史が変化している状況を把握し、日韓両国間の相互理解と相互利益の追求が重要な理由を学んでいく。特に、両国間の関係が近隣諸国また世界に対してもつ影響も視野に入れながら、共に責任ある国家同士としての関係構築が重要であることを確認していく。

 

  • 朝鮮半島。中国東北地域の東側。ロシアともトマン川(豆満江)を挟んで接し、南北におよそ約1000kmの長さ。
  • 南部は温帯に属する。夏は湿潤で蒸し暑い温暖湿潤気候の最南部と、そのすぐ北の温暖冬季少雨気候に分かれる。後者では冬は緯度のわりに寒冷。
  • 北部は大陸性の亜寒帯冬季少雨気候に属する。夏は涼しく、冬の寒さは厳しい。
  • 朝鮮半島の面積は全体で日本の58.4%ほど。南部の韓国の面積は朝鮮半島のおよそ 45%で、日本の約4分の1。
  • 北部の北朝鮮の面積は朝鮮半島のおよそ55%で、日本の約3割ほど。
  • 現在の人口は、韓国が5,125万人、首都ソウルに人口の5分の1が集中。北朝鮮は韓国の約半分の2,490万人。
  • 北の朝鮮民主主義人民共和国と南の大韓民国。1950〜53年の朝鮮戦争の結果、軍事境界線=休戦ライン(38度線)で分断され、その南北2kmずつを非武装地帯とし無人の地域としている。
  • 板門店にある軍事停戦委員会本会議場は例外的に両国による共同警備が行われている。
  • 韓国は1973年から重化学工業に力を入れ、輸出志向型の工業化を進めた。漢江の奇跡と呼ばれる高度経済成長を達成。
  • 北朝鮮社会主義経済国家で事実上の独裁体制。旧ソ連にならい計画経済を導入し、軍事優先の先軍政治を掲げ、軍事費は世界1位といわれる。
  • 戦後の韓国は、1960年代前半までは農業国だった。資源が少なくGDP(国内総生産)で北朝鮮を下回っていたほど。
  • →1960年代半ばからの急速な経済開発。産業構造の高度化、輸出拡大、経済成長を実現。安価な労働力を利用した軽工業が中心であったが、1970年代初めから重化学工業の発展を目指し、輸出志向型工業化に成功を収めた。
  • 1996年には OECD(経済協力開発機構)へ加盟
  • 1997年7月にタイで生じたアジア通貨危機の影響を受け、韓国経済は大きな困難に直面した。←財閥系企業の破綻などを原因として金融機関が不良債権を抱え、経済状況が大幅に悪化していたところに追い打ち。外国資本の投資引き揚げも重なり、危機を深めた。
  • →経済運営を一時的にIMF(国際通貨基金)にゆだねるなどの国際的支援を受けた。経済立て直しのために財閥企業の統合や改革を行った。IT産業を中心とした経済対策などを進めた。
  • 2008〜09 年にはリーマンショック。国際収支の赤字を抱えていた韓国は、対外債務の償還時期も重なり、自国通貨ウォンの大幅下落に直面。ウォンと外国通貨との為替相場の安定を図るスワップ協定アメリカと結んだ。また、日本と結んでいた日韓通貨スワップ協定額を拡大するなど、各国からの協力を仰いだ。
  • 現在は経済が好調な一方で、韓国が抱えている課題は、大きく次の3点がある。
  • (1)首都ソウルに総人口の5分の1が一極集中していて、農村人口が急激に減少していること。
  • (2)財閥主導のため中小企業が育っていないということ。
  • (3)若い世代を中心に非正規雇用者の割合が高く、経済格差を生み出している。
  • 世界のマーケットで、日本は国際分業の川上と川中にあたる製造分野(資源や原材料の生産、製造のための機械や部品など中間製品の生産)をつかんでいる
  • 川下にあたる完成した製品とその販売の分野では中国や韓国が台頭している。韓国や中国が技術力をつけて、最近は徐々に上流へと進出し始めている
  • 333点の朝鮮通信使の記録が、ユネスコ世界の記憶に登録された 

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3問正解。

 

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